Palehorse82のTwitter

ネットで感想を検索すると「めっちゃ良かったー」「泣いたー」みたいなのしかなくて、賛否のいずれにしても納得のいく映画評が少ない印象。今のところ大きく首肯できたのはキネマ旬報増當竜也氏の評論。これは単なる批判に終わらず書き手・作り手の狙いを分析していて必読。

きちんとしたレビューが不足しているこの状況は、想像するに、おそらくこの小説及び映画が、評価するのも批判するのも、非常に面倒くさい代物だから、なのではなかろうか。

小説は、いまや押しも押されぬベストセラー作家になった百田尚樹のデビュー作であり、300万部突破の大ヒット作である。
一方でテレビの現役放送作家としての顔を持つ百田氏は、今ではネトウヨ的な発言をしたり歴史修正主義的な主張をするなど、批判を受ける部分も多い。また安倍政権と密接な関係にあったり、NHK委員に選ばれたことなども「いかがなものか」的論調で取り上げられている。
映画は、久方ぶりにテレビ主導ではない東宝の製作・配給作品であるし、キャストも今をときめくフレッシュな面々が揃っている。力の入り方が違うのだ。(そして大ヒットしている)
監督は『三丁目の夕日』シリーズの山崎貴VFXは白組(であると同時に監督自身がVFXでクレジットされている)。特撮に関しては最強の布陣であったりする。
一方で、山崎監督のドラマ演出はテレビのごとき説明過多であるといった批判がよくなされるのも事実としてある。(これには同意している)大ヒットメーカーへのひがみ根性も手伝って、観る前から「嫌い」であるということにしておく、自分のような人も少なからずいる。(とかわざわざ書いている段階ですでに面倒くさい)

百田氏を取り巻く現状は無論知っているし、自分自身もそれをあまり良くは思っていないのだが、創作物とそれを作った人間への評価は別物、というのが僕の建前としてはあって、そういう意味で、『永遠の0』を百田氏批判から切り離して、きちんと正面から作品として評論したようなものが読みたい、特に映画に関しては、できれば確かな方の評価・批判レビューを読みたいと思っていたのだが、なかなかない。
生憎今のところ読んで納得できるのは前出の増當氏のに加えて、樋口尚文氏のネット評論ぐらいしかないのが現状だ。もし他に好レビューがあったら教えて欲しいぐらい。
樋口尚文の千夜千本 第8夜  「永遠の0」(山崎貴監督)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/higuchinaofumi/20130805-00026988/

というわけで(前置きが長い)、自分の映画『永遠の0』感想を、面倒くさいけど書いておこうと思う。ネタバレありです。

結論から言うと、あの原作を冗長にならなずに丁寧にまとめた構成・編集は見事だったと。ただ、東宝戦記ものの横に置いて遜色ないかと言われれば、あともう一息かな……という印象。

大戦パートのVFXは、さすがの白組だけあって、見た目のリアルさ、という観点ではクオリティが飛び抜けている。
強いて難を挙げるとすれば、空戦のスピード感が、おそらく作ったプリビズがそうなんだろうけど、今ひとつ足りない印象。(個人的な感想です、とかいちいち書きたくないが)飛行機が高速で飛んでいればスピード感が出るわけではない。編集によるスピード感の出し方が弱いような気がした。
キャストは総じて、好演が目立っていた。



しかし問題なのは、現代パートで……。

小説版もそうなのだが、証言を聞いて回る主人公とその姉は、映画が始まってすぐの段階では戦争のことについてまったくの無知であるという設定になっている。
だが、さすがに零戦ぐらいは知ってんだろ!と内心つっこまずにはいられない。
姉にいたっては、小説版では、フリーのライターとして(大手新聞社が発行する)戦争の証言者を扱った大規模な書籍編集に今後携わる予定があるにもかかわらず、祖父の証言を聞きに行く際は、まっさらな気持ちでのぞみたいのよ、とかのたまい、事前のリサーチを行わない。(その形跡は見られない)ライターたるものそんな仕事姿勢でいいのか?という疑問がまずわく。
映画版も五十歩百歩で、証言を聞く相手が特攻隊員だったという前提はわかっているわけだから、まずは特攻隊とはなんぞや、零戦とはなんぞや、さらには第二次大戦とはどんな戦いだったのか、を調べるのが普通だろうし、たとえ調べてなくても、どんな学校を出ていたって戦争があったことや特攻隊の存在ぐらいは知識として学んでいるだろう、と思うのです。なのに入院中で末期の橋爪さんが、わざわざ病床に置いてある零戦のおもちゃを手にして「これは零戦と言ってね……」と超初心者向けの戦闘機・戦史解説を始めた時には、そこはいたわってやれよ、と思わずにはいられなかった。これはそもそも先の大戦零戦に関して、ほとんどの観客は深い知識を持ち合わせていないだろう、という山崎監督得意の安心設計そのものだし、実際この小説を読んで「戦争のことが勉強になりましたー」っていう人、けっこう多いみたいだからなぁ。これはキャラクター造形の問題で、そういう設定にしないと、後で戦史収集に主人公がのめり込んでいくという展開につなげられないという作劇上の都合なのだろう。ただ、物語(と観客への配慮)のために、キャラクターのリアリティが破綻している。

そして最悪なのは、合コンのシーン。
これは原作では、現代の主人公ととある新聞記者の対立として、割と比重の置かれているシーンなのだが、映画でのそれは改悪と言っても過言ではないと思う。

主人公はネットで太平洋戦争の戦史を読み漁っていた。(という時点でアレなのだが)と、そこへ男友達から電話が入る。主人公はその日、3×3の合コンに誘われていたのを(ネットに没頭しすぎて)忘れていたのだ。(おい)
慌てて店に向かう主人公。男友達は女性陣の前で聞こえよがしに「こいつは今特攻隊のこと調べてるんだって」とか余計なことを言う。(合コンの席でそんなわざわざ言わんでも、という風にイライラする)
ふてくされる主人公にさらに「特攻隊ってテロなんだよな」的なことを言う男友達。(だからTPOをわきまえてだな……とイライラする)
「テロじゃねーし」と反発する主人公。(やめとけばいいのに……やっぱりイライラする)
そこで女性陣から「やめないそんな話?」とぐうの音も出ない正論を吐かれて、今度は主人公がイライラ。(この時言われる台詞がまた主人公が嫌悪感を持つように撮られているんだな、正論なのに)
怒り心頭の主人公は、会食の席を立ち去ってしまう……。

祖父のことを「テロリスト」呼ばわりされて怒るのもわかるのだが、シチュエーション的に主人公にも相手にも共感できない異質なシーンになってしまっている。このシーンでの男友達や女性陣は、観客に「イヤな奴だなー、くたばればいいのに」と思わせるためだけに存在する藁人形に過ぎない。こういう改変が限界なら、小説版のままの方がまだ良かった。いや、小説版の方もかなり藁人形的ではあるのだが。

こういった場面を経て、主人公はラスト、亡き祖父が零戦に乗る姿を幻視する。その時に発する叫びはやはり、過去を忘れ、今をのほほんと生きる(と主人公が主観する)日本人への絶望、そこから転じて、戦時中の尊敬に値する勇者たちにもう一度目を向けろというメッセージになるのだと思う。
その発想って何かに似てるなー、と思っていた。
これって戦争の知識を入れた若者が保守化して、最悪はネトウヨになる、小林よしのりの「戦争論」の時に見られた現象と同じじゃんか、と。
百田氏自身は、「永遠の0」執筆時はそうでもなかったようだが、ここ数年間で確実に歴史修正主義に傾倒し、保守的政党に肩入れし、ネトウヨ的な言質をツイッターで晒している。
そういう意味で、「永遠の0」の主人公はやはり、百田氏自身に重なるし、フィクション上はきれいに終わるものの、あの主人公はその後今の百田氏みたいになっちゃうんだろうなーとか思うと、映画として全然いいエンディングじゃねーじゃねーか、となったりして、感動して涙を流すどころではなかったですよ。


後は蛇足。

主人公の彼、貴重な証言者から受け取った大事な資料を、大雨の中はだかで持たない!できれば(メモ帳とか入れた)カバンか何かにしまってくれ。

それから最近の作り手……みんな『ダークナイト』に影響受けすぎネ!(観た人はわかる)